『私の少女』―私と少女の業は深い―

『私の少女』

 プロデューサーのイ・チャンドンは、極小の世界から、しばし重苦しい主題を投げかける。『シークレット・サンシャイン』(2007)では、シングルマザーが一人息子を誘拐殺人で失い、その不条理さから宗教に入信するが、そこから二転三転して、「何かにすがる必要はあるのか」というテーマを観客に突きつける。続く『ポエトリー アグネスの詩』(2011)では、老婆が孫息子のいじめ自殺事件への関与から目を背け、詩の教室に通い、なんとか罪の意識から逃避を試みるが、生みの苦しさを経て悲劇に見舞われる。常に低予算で撮られた、市井の人々の生活を見て、観客はわだかまりを抱えながら劇場を後にする。

 本作は港町を舞台に、幼児虐待、同性愛、外国人不法就労を扱ったヒューマンドラマである。本作も例外なく、一人の少女と、彼女を心配する女性、少女の父親(ソン・セビョク)が主な登場人物で、他の人物は物語上の背景でしかない。ソウル市警から左遷されたエリート警官ヨンナム(ペ・ドゥナ)は、ある日一人の少女と出会う。名前はドヒ(キム・セロン)。母親が蒸発して、父親と祖母からの虐待を受けている。彼女は家庭内の暴力に耐えかね、家を飛び出し、ヨンナムの家を行き来するようになる。ある日、ドヒの祖母の変死体が発見された。オートバイ事故だったように見られた。ヨンナムは彼女から、祖母の変死に関して目撃証言を得ようとするが、聞き出せない。その後は父親が祖母の死を彼女のせいにして、さらに八つ当たりを繰り返す。彼女を看過できなかったのか、ヨンナムはドヒと同棲生活を始める。

 本作は、ヨンナムが変死事件の捜査で、ドヒを見つめるショットが肝と言える。少女から証言を聞き出す際、ヨンナムの顔は極大のアップになる。それ故、少女から見たらヨンナムは大きな存在に見える。

 ドヒはヨンナムに、数々の虐待の痕を見せ、自分の哀れさを強調する。ともに風呂に入り、酒も呑む。ショッピングモールで水着を買い、彼女と海で遊ぶ。そのため、ヨンナムが元の彼女と再会し、ドヒに長らく連絡をしないと、嫉妬心からドヒは大暴れする。その後父親が彼女の迎えに来た際、躊躇なく元の家に帰ってしまう。

 ファム・ファタルとは、主人公の人生を狂わせていく存在である。ドヒも例外なく当てはまる。生まれ育った環境のせいなのか、生き抜くためのたくましさがある。ヨンナムの家で居候を始めてからは、異様な艶めかしさを放ち、同性愛者の彼女を魅了する。また彼女は自宅に帰宅後、虐待の証拠として父親を誘惑し、性的虐待を装い、電話口から音声を警察に届ける。その後ある事情から、ヨンナムは警官を止め、ドヒとの二人の世界に没入していく。少女にとって大人はどう映るのか。見透かして、容易くコントロールできる対象なのだろうか。10代少女の魅力からは、想像を絶するおぞましさが感じとれる