予定調和を崩せるか 『皆殺しのバラッド メキシコ麻薬戦争の光と闇』

♪手にはAK-47

肩にはバズーカ

邪魔する奴らは頭を吹っ飛ばす

俺たちは血に飢えているんだ

殺しには目がないぜ

 これは、麻薬カルテル(麻薬産業を牛耳る犯罪組織)のボスを民衆のヒーローとして讃えるポップ・ソング(ナルコ・コリード)の歌詞だ。

 本作はメキシコ麻薬戦争とナルコ・コリードを扱ったドキュメンタリー映画である。

メキシコ麻薬戦争とは、フェリペ・カルデロン大統領が2006年12月に麻薬カルテル壊滅のために宣戦布告した戦争である。なぜ戦争なのか。それはカルテルが単なる麻薬のマフィアではなく、民兵組織化されたファミリーであるからだ。カルデロン大統領は2006年から2012年にかけて、メキシコ中の都市や村々に5万人の兵士と5万人の連邦警察官を送りこんだ。その間の死者数は3万4千人を超える。

本作の舞台はメキシコの街シウダー・フアレスとロサンゼルス。それら各々の地でのシーケェンスが並行して交互に語られていく。

 「世界一危険な街」とされるシウダー・フアレス。およそ100万人の人口を超えるこの街では、年間3,000件を越す殺人事件がある。地元警察官リチ・ソト。彼はカルテルの脅威に屈せずに捜査し続けている。彼の同僚は1年に4人殺された。カルテルによる処刑である。そこは一歩道を外せば死の世界。そんな状況の中、さらに被害者遺族からは事件の捜査が進展していないと糾弾される。だが彼は、目と鼻の先にあるアメリカ合衆国の都市エルパソに移住しようとしない。その地が年間殺人件数4件にも関わらずだ。彼の故郷を思う気持ちは強く、街を少しでも良くしたいとの信念から、決して離れようとしない。

 一方ロサンゼルスのシーケェンス。ナルコ・コリードの歌手エドガー・キンテロはその人気に乗ってのし上がる若者だ。彼はカルテルの武勇伝を連想させる作詞を依頼され、それを歌にしてCDをリリースする。その内容は、殺し、拷問、誘拐、麻薬密輸にまつわる暴力的なもの。ゆえに若者からの圧倒的な支持でキンテロは巨万の富を築く。さらにボスに呼ばれ、演奏を披露することもある。彼としては誇り高いことこの上ない。  

 私は以前からメキシコ麻薬戦争の関連事に興味を抱き、それを題材にしたフィクション、ノンフィクションを問わず、あらゆる素材に触れてきた。ドキュメンタリー映像以外ではあるが。そのため、ある程度情報が入っていた。そして、既知情報に還元される映像しかないだろうと思いこんでいた。それは予想通りでもあった。

 佐藤真は、「ドキュメンタリー映画の地平―世界を批判的に受けとめるために〈上〉」にて次のように言及する。「ドキュメンタリー映像はキャメラの目の前にある事実を映しとる。目の前にいながらも気づかない細部や撮影者の意図を超えたものまで、目の前にある事実をそっくりそのまま映しとる映像のこの機械的再現性によって、映像に映された事実は決して文字情報に還元できない」と。

 だが、各々のシーケェンス単体はそうではなかった。別個に見せられただけなら“既読感”が強く、退屈な映像となったであろう。いかに命を賭したアプローチであろうと情報フィルムに価値はあるのか。また、ドキュメンタリー映画という一定の時間枠に収めるべき手法では、情報をミスリーディングし得る。例えば、本作ではメキシコ麻薬戦争の原因を、それを宣言したカルデロンが元凶であるかのような情報を伝える。しかし、観客にそう認識されるとしたらそれは完全な誤解だ。激化した原因は多々あるが、一つはセタスというカルテルが火に油を注いだことだろう。事実「セタスはギャングのような考え方はしない。彼らは、その地域を支配する民兵組織のような考え方をする。その新しい戦闘方法は、急速にメキシコの麻薬戦争に浸透していった」と、ジャーナリストのヨアン・グリロは「メキシコ麻薬戦争」にて書いている。

 死体の写真も凡庸だ。私は10年ほど前からアルカイダの人質処刑ビデオなどで人間の死に際を見た経験があり、メキシコ麻薬戦争犠牲者の写真もインターネット上に数多くアップロードされているため、既視感が強い。ネット上の写真を見た際の印象も特殊メイキャップアーティストのディック・スミスのボディ(死体)メイクとほとんど変わらず、驚きはほとんどなかった。昨今、メディア上の死体が生命の潰えた本物であったとしても物好きな嗜好の観客にとっては何の迫真性もない。

 では、予定調和のみで構成されているのか。実際そうではなかった。

  フアレスのシーケェンスの地元警察官ソトと、ロサンゼルスのシーケェンスのナルコ・コリード歌手キンテロとの状況の対比である。ソトを追った切実な現況を見ると、キンテロの能天気さが浮かび上がる。彼はメディアを介さない感覚世界ではカルテルの凶暴さを知らない。「憧れた世界」こそが現実であると錯覚してしまうのだ。カルテルの神話を歌い、全米のウォルマートでも販売されビルボードにもランクインする。その歌を聴いた少年たちはカルテルのメンバーとなり、キンテロは武勇伝を歌にし、新たにカルテルのメンバーが増え、カルテルの神格化は強まる。こうして次第にナルコ・コリードは発展していく。キンテロは図らずとも広報担当となる。監督のシャウル・シュワルツは「ジャーナリストは、感じた『怒り』を上手く使うべき」といった言葉を残している。この「怒り」とはカルテルの暴力性なのは自明であるが、彼は犯罪組織による文化醸成の「怒り」も伝えたいのかもしれない。